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新井ビル竣工100周年
有形文化財
〜 新井ビル竣工100年に寄せて 〜
新井株式会社
代表取締役社長 新井健一
2022年4月に新井ビルの歴史は100年になりました。また、私が先代(三代目 新井真一)からこのビルを引き継いで丸10年を迎えます。建物が100年の時を刻んだという節目に、皆さまへの感謝のご挨拶として四代目オーナーの私なりにその百年史を振り返り、感じた事を申し上げたいと思います。
このビルが竣工したのは、明治維新を経て日本が世界の中で近代国家の仲間入りをしようとしていた時代です。大和政権から千年を超す歴史を有していたとはいえ、欧米列強の尺度に適う国家としては、まだ壮年期にも達していませんでした。列強諸国の社会制度や技術を導入することに専心し、建築や都市インフラの分野も国際的な様式に倣うものに一変しつつありました。
明治初頭、工部大学校 造家学科(現・東京大学 工学部建築学科)が設置され、ジョサイヤ・コンドルを師と仰ぐ日本の近代建築の先駆けとなる建築家達が輩出されました。その四期生である河合浩蔵が、円熟期になり手掛けたドイツの様式の流れを組む正統的な西洋建築が新井ビルです。しかしながら、日本における正統派の西洋建築であっても“たかが100年”。ヨーロッパの古い街並みにさりげなく佇む築数百年の建物と比べれば、歴史的な価値としてはありふれた類に入るのでしょう。しかし、欧州ではありふれた部類であれ、この北船場では数少ない歴史的アイデンティティを保つ建物であり、誇らしく感じずにはいられません。
ここで改めて新井ビルの100年を振り返ります。
新井ビルは大正11(1922)年に、旧・報徳銀行大阪支店の建物として竣工(施工は清水組:現・清水建設)しました。昭和初期の世界恐慌による混乱期を経て、昭和9(1934)年に初代(曽祖父 新井末吉)が建物を取得し、自ら営む証券会社の本店といたしました。二代目(祖父 新井健治)の代で証券会社、および商社を廃業して、その後はテナントビルとして活用しています。太平洋戦争時には大阪大空襲の戦火を潜り抜け、戦後は高度成長期、二度のオイルショック、そしてバブル景気とその崩壊を経てきました。100年の間には幾重にも激変があり、このビルはよくぞ多くの時代の嵐に耐え忍び残ってくれたと感心します。
さて、私が受け継いでからの年月は、建物の百年史の10分の1に過ぎないのですが、時代を遡り先人達から伝え聞いたエピソードを記したいと思います。まず、新井ビルに戦前まであったエレベータにまつわる話です。ビル正面北側を入ると吹き抜けの階段室があるのですが、その中央部分に、畳二畳分にも満たない小さな籠が上下する真鍮製の昇降機があったそうです。資料が残っていないのであくまでも想像ですが、純外国製(オーティス製など)でクラッシックなガラスドア付きの洒落たものだと思います。残念なことに、戦時の金属供出で接収されてしまったと記録に残されています。コンクリートの階段ささら面(階段の側面)には、現在も昇降機を支えていたボルト金具片だけが見て取れます。
また、先代はテナントさんの不便を知りエレベータ復元を計画しましたが、建築法規上難しく断念したと聞いています。現在では4階建ての建物であれば設置が当然でしょうが、このビルでは今も変わらず、階段で上り下りする不便さは変わっていません。私も快適さを考慮し再設置を考えましたが、今では「むしろ要らない」との思いに至っています。それは、現在のテナントさんはこのレトロな建物を好んで入居された方々で、この不便ささえ愛おしんでくださっているからです。機能性の良い新築物件が好まれるのは一般的ですが、一方で、新井ビルのような歴史的なのものに価値を感じる方が多くいらっしゃいます。このような価値観を個人レベルでも発信、共有することが可能になったネット社会の恩恵を感じております。
二つ目の話です。三代目(父 新井真一)に代替わりしてまもない昭和51(1976)年、世の中がまだ経済効率一本やりだった時代に、建物を取り壊し8階建てにする案が浮上しました。入居テナントに目途を立て、本決まり寸前まで計画が進んだそうです。しかし、歴史的に価値のある建築物を建て直す事業の横行に危機を抱いた建築学会から「新井ビルを壊さないでほしい」と要請があり、計画を断念したということです。先代は、「その要請は要請に過ぎず強行できなくもない」と考えたそうですが、最後の最後で「自分はやはり新井ビルに対して愛着をおぼえているのだ」と気づき、壊すに忍びなくなったと述懐しています。当時すでに文化財保護法はあったものの、東京・日比谷の帝国ホテル(フランク・ロイド・ライト設計)の解体反対運動が無力に終わったことが象徴するように、歴史的文化価値を尊重する声が成長と効率の経済原理に席捲されていた時代でした。その渦中にかかわらず、建物は壊されずに生き残りました。今になって、先代の勇断に感謝すると共に、このビルの幸運には感慨深いものがあります。
三つ目は今世紀になってからの話です。昭和51年に建て替えを断念した直後、無事に生き残った新井ビルを祝福するかのように、ステーキレストラン『弘得社スエヒロ』さんが1,2階テナントに入居されました。明治創業の老舗レストランと建物のレトロな雰囲気がマッチして長らく人気店として営業されていました。時流の流れにより惜しまれながらも閉店されましたが、当時を知る方々から懐かしむ声を今も耳にします。その後、平成17(2005)年に入居いただいたのが人気洋菓子店『五感』さんです。当時まだ創業から1年余りだった浅田社長は「この北浜と新井ビルにお菓子作りの店としてすべてを賭けたい」と熱く語られたそうです。先代はその熱意に感服し、二つ返事で入居をお願いしました。そして、その後の『五感』さんの人気ぶりは私が受け継いでからも素晴らしいものです。今では新井ビルのブランドイメージは、『五感』さんによって引き上げていただいていると感じています。
この10年は、おかげをもちまして『五感』さんをメインに3、4階のテナントフロア―もほぼ満室状態です。ただ100年になるこの建物は老朽化という課題があります。新井ビルは令和元(2019)年に、近畿大学 建築学部准教授 高岡伸一先生にご助力をいただき、ビルを施工した清水建設さんによる本格的な耐震調査を実施しました。新井ビルはRC(鉄筋コンクリート)造で、躯体壁厚が30cm以上あるためコンクリートの中性化は表層部だけで構造的に問題になるような劣化はないという結果を得ています。しかし将来を考えると、部分的に耐震補強することがベターという見解があり、意匠を損なうことがない範囲での補強工事を予定しています。また設備関連の老朽化対策についても検討が必要でありますが、全体的には防災、安全のリスク管理が最重要と認識をしております。
外装については 平成23(2011)年にファサード(建物正面)の修復工事を行っています。やはり古い建物を残すためには、手厚いメンテナンスを講じていくことを避ける訳にはいきません。新井ビルは国の登録有形文化財として登録しており、一部修理補助金制度の適用を受けられる場合もありますが、基本的に修理費用はオーナー負担というのが原則です。しかし、最近は国の方針として文化財級の建物は単なる保全を目的とするのではなく国の貴重な観光資源として活用する方向に変わってきていますので、補助金制度の内容がより拡充されればと望むところです。
そして近年ではビル単体での営業活動だけでなく、北船場の近代建築所有者の組織である『近代建築ネットワーク』の仲間に加えていただき、情報交換や多面的な協働活動に参加しております。平成28(2016)年から大阪市が主催する建物の公開イベント『生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪(通称「イケフェス」)』にも初回から参加しており、これらの活動や行政との連携等を通じ、新井ビルも微力ながら地域の魅力向上の一助を担えればと願っております。
また、建物を維持していくにあたり、過去から現在に至るテナント様はもとより、平素ビルの管理、メンテナンスに協力していただいている皆様にも、この場をお借りして心より感謝の意を表したいと思います。
最後に、現オーナーとして私の思いをお伝えします。100年の時を刻んだ新井ビルの価値は何であるかと考えてみました。商都大阪の黄金期『大大阪時代』の面影を残すこの街で、ノスタルジックな外観を今なお保ち、皆さまに親しんでいただいているという事実だけで十分という率直な思いに至っております。幸いなことに、昨今は環境保全や持続可能社会の観点から、古き良きものの価値を理解する時代になり、多くの方が新井ビルを支えて下さっており、その命運に明るい光が差し込んできていると感じています。100年という新井ビルの歴史を噛みしめて、これからも多くの皆様に愛されるビルとして存続できるよう努力してまいりたいと思います。